Latter Rain-Testimony (証)

日常の生活で生まれるクリスチャンの小さな証を綴っていきたいと思います。

失って始めて気付かされた事

夏休み最後の思い出として、妹と甥・姪たちと一緒によみうりランドのプールに遊びにいきました。天気も良かったし子供たちがプールで遊ぶ写真はぜひ撮っておきたい!と思い携帯をジップロックに入れて、それをポリエステルのウエストポーチの中に入れてさらにしかり封をし、大人もプールで一緒に遊んでいました。

さて、子供たちが1人1人高台から飛び込みに挑戦する!ということで私は「ここはシャッターチャンス!」と携帯を取り出したところ、不幸なことにジップロックを超えて携帯が水に浸されていました。知識のない私はすぐ電源ボタンを押して起動を試みましたが立ち上がりません。その時は家に帰ってドライヤーで乾かせば元通り復活するだろう、と軽く考えていました。しかし家に帰ってドライヤーで乾かし1日置いてみても、また2日置いてみても携帯の電源は一向に立ち上がりません。携帯をお米の中に入れたらよいというネットの情報もトライしてみましたが、うまくいきませんでした。ここまで来て、さすがに私は気が滅入ってきました。ここまでショックを受ける自分に驚きでした。こんなにも日々の生活において携帯に依存しているとは思っていなかったからです。

でもここで冷静に考えてみると携帯でしていることは家族、友人や保護者会(これは重要!)とのLINE、そのほかメールやFacebookなどのSNSがありますが、これらはパソコンでも簡単に見られることを認識しました。それでは電話帳や今まで撮った思い出の写真は?こちらもGoogleクラウドですべて一括管理されているため心配は全く無用でした!よってあとは非常にシンプル機種変更の手続きをするだけでした。

携帯は確かに便利ですが、その便利さに大きく支配されていることに気づいたことが目から鱗でした。新しい携帯が届くまで普段のように携帯からの通知を気にしたりむやみに操作したりする時間から解放され、逆に非常に自由を得た感覚でした。

時に「自分では大事だ」と思って持っているものを神様は私から突然奪うことによって、日々の生活で「神様以外の何に自分が支配されていたのか」その偶像を示してくださいます。神様はもっと神様にあっての自由を与えたい、神様との関係のもっと深い場所に入ってきてほしいと思っておられるのだと思いました。このような小さな出来事を通しても神様はいつも私たちに確実に働いてくださいます。その神様の愛に感謝したいとつくづく思いました。

 

すべて、偶像に仕える者、むなしい神々を誇りとする者は恥を受ける。神々はすべて、主に向かってひれ伏す。

詩篇97篇7節)

神様のお守りと犠牲について

夏休み中、小学4年の娘が三育学院中学(千葉県・大多喜町)で開催されるEnglish Campに参加することになりました。ここで小学4~6年生が40名ほど集まって、2泊3日で寮での共同生活・宿泊体験するという素晴らしい企画です。親元をはじめて離れる、ということでドキドキしながら参加させましたが、他の系列小のお友達とも仲良くなり、菜食中心のヘルシーな1日3回のお食事、キャンプファイヤー、滝ハイキング、リクリエーション、また朝晩のお礼拝の時間など、本人にとって非常に楽しく恵みある時間が与えられました。

さて帰りは父親が閉会式に参加した後、車にお友達1名を乗せてアクアラインと首都高を経由して安全運転で無事帰宅することができました。ところが、帰宅した途端、車のエンジン制御関連の故障アラートがぱっとついたのです。この話を夫から聞いて、びっくりしたものの、神様がお祈りを聞いてくださり、首都高を走っている間も3名を守って無事に返してくださったことを知り、感動を覚えずにはいられませんでした。

このことを娘にも話したところ、意外な反応が返ってきました。「私たちを一生懸命運んでくれた車が壊れちゃったの?車があまりにも可哀そう」と涙を浮かべてしまいました。私も思わず涙が出てしまい、「今修理しているから大丈夫だよ」と言いました。あまりにも幼いその感覚に私も戸惑いましたが、娘とのやりとりからイエス様の犠牲も連想し、私も涙が出てしまったのかもしれません。私たちの救いのために自己犠牲の道を歩まれたイエス様。最後には十字架の犠牲によって死なれました。私たちの罪が赦され義とされるためです。神様の「守り」と「犠牲」とはどういうことか、今回の経験で家族ともに学ぶことができたことは大きな喜びです。

罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです。(コリント2 5:21)

神様に聞き従うことの大切さ

小学4年の娘の夏休みが始まりました。一人っ子で両親共働きの娘は、夏休みは毎年近所の学童に行くことになっています。もちろん夏休みの宿題が出ているので、まだ計画的に毎日こつこつ宿題ができない娘のために、私は今日やるところのページに付箋をはって、「今日はこの付箋のページのところは必ずしてくるんだよ!」と言い聞かせました。ところが、学童から帰ってきてチェックしてみると付箋をしたページをほとんどやっていません。仕方がなく、「明日はこの付箋のところは絶対してくるんだよ!」と言い聞かせました。ところがまた次の日もやっていませんでした。

私はとうとう困惑して「どうしてできなかったの?」と問いただしました。娘は「わからなかった」と言いましたが、少しでも自らトライして考えたような形跡は全くみられません。「まずは一生懸命取り組む姿勢が大切なんだよ」といつものように始まりました。娘は私が忠告するたびに話の論点をはずし、激しく反抗し続けました。そして父親も加わり、ついに娘は「私のこといつも2人で攻めたてて。怒ってばっかり!!」といつもの逆切れのパターンが展開されていきました。泣きながら怒り狂う娘をどう扱ったらよいのか私たち夫婦は非常に困惑しました。父親は、「そんなにも反抗して両親に従えないのだったら、この家を出ていくしか方法がない。もしこの家に住み続けたいのであれば両親の言うことに従いなさい」と伝えました。娘はこの言葉に全く納得がいっていないようでした。

その時、私は「罪」について神様がどう感じておられるかを瞑想しました。そして次のように娘に伝えました。

「娘の今起こしている反抗や怒りの癇癪は生まれつきのものでない、娘は生まれたときから神様の最高の傑作品であり神様の子供である、娘の存在は尊いことに今も変わりはないんだよ。」

「けれど、罪を犯しているとき(怠惰だったり、反抗したり、怒ったり、責め立てたり)は霊的には病気の状態、すなわちイエス様とつながっておらず、死んでいる状態で、神様から見ればあまりにもみじめな状態なんだよ。」

「今、娘は病気の状態になっているから神様はとても心配していて娘のことを泣く思いで見ておられるんだよ。」

「このようなすべての病気の原因は、両親に聞き従わないこと、神様の言うことに聞き従わないことからくるんだよ。」

この事は私自身にも言い聞かせました。身につまされる思いでした。次の聖句が思い浮かびました。 

サムエルは言った、「主は主の御声に聞き従う事を喜ばれるように、全焼のいけにえやその他のいけにえを喜ばれるであろうか。見よ、従うことはいけにえにまさり、耳を傾けることは雄羊の脂肪にまさる。」

サムエル記15:22

この事を伝え終わると、娘の表情が少し和らぎました。私は「両親と神様に聞き従える、祝福ある子供になりたい?」と聞きました。娘は素直に「うん。」と答えました。そこで私たちは意思を確認し、お互いに責め合ったことを謝りました。

今日も娘は学童に行きました。宿題をしてくるかはどうかはわかりませんが、このような子育ての試練の経験から、神様に聞き従うことの大切さを娘と共に教えられたことを主に感謝します。

これからも粘り強く、娘に神様の愛と戒めを伝えていきたいと思います。

速やかに天からの御使いを送ってくださる

家族で雪道を車でスキーのゲレンデに向かおうとしていた時のことです。ちょうど上り坂から対向車が来て、私たちの車は道を譲るため、夫は一旦停止しました。さて、その後発車しようとしたところ、雪ですべってびくとも動きません。それどころか少しずつスリップして後退している感覚もありました。慣れない経験で私は恐怖を感じたので、娘と一緒にすぐ主に祈りました。「イエス様、車が雪ですべって立ち往生しています。どうか助け手を送ってください。」そしたらどうでしょう!後ろから来た車のドライバーの方がすぐに駆け付けてきてくださり、車を後ろから押してくださいました。そして私たちの車は難なく前進することができました。

また、ある日会社で、私宛に海外から届いた新商品を9Fの倉庫まで運ばなくてはなりませんでした。大きい段ボールの箱が12箱もありました。社内を見渡すとテレワークのため2名くらいの女性と、男性も1名おりましたが電話中で忙しそうだったので私は覚悟を決めて1名で運ぶことにしました。作業を開始する前に「神様。無事にこの荷物を移動させることができますように」とお祈りしました。そしたら、普段はたった数キロの荷物を運ぶ時でも重く感じ、腰などの負担も感じていた私でしたが、その日は軽々箱を持ち上げ(まるでサムソンのように!)次々と台車に載せていくことができたのです!また、エレベーターや少し坂になっている場所でも苦労することなく台車を押し、たったの2往復で荷物を9Fに入れることができました。この時私は思いました。「神様はすばやくみ使いを送ってくださって、持ち運びをはじめから終わりまでサポートしてくださった!私に力を与えてくださった!こんなに自分にはパワーや体力があるわけがない、この事実は間違いがない!」

聖書にみ使いについて、このような言葉があります。「御使たちはすべて仕える霊であって、救を受け継ぐべき人々に奉仕するため、つかわされたものではないか。(へブル人への手紙1:14)」私のようにごく小さなクリスチャンでも、まず神様に頼るとき、神様は天からみ使いをお送りくださり、み使いは、助け手として速やかに働いてくださるのです。

また私たちの祈りに関して、次のイエス様のみ言葉があります。「彼らが呼ばないさきに、わたしは答え、彼らがなお語っているときに、わたしは聞く。(イザヤ 65:24)」実は、神様は私たちが祈る前から私たちの奥底の思いやほんの小さな不安をご存じで、またそのことについて既に備えてくださっていることをこのみ言葉から知ることができます。何と偉大で憐れみ深い神様でしょう!

日常の生活でも困ったと思う事、不安な出来事は不意にやってきます。そのような時、何とか自分の知恵や経験をふりしぼって対策を考えたり、行動してみたり、はたまた夫や家族、専門家に相談したりしてしまいがちです。ですが、まず何よりも宇宙一偉大なカウンセラーである神様に「助けてください!」と聖霊によって叫び求め、不安や胸の内をすべて打ち明け、助け手を送ってくださるよう、イエス様のお名前によって祈っていきたいものです。そうすれば神様は必要に応じて天からみ使いを送り、必ず備えの道を準備してくださいます!これからもこの事を信じて祈っていきたいと思います。

「怒り」の感情からイエス様の「忍耐」を学ぶ

子育てをしていなかった時には思いもよらなかったような“獣のような自分”が住んでいることに気づかされる事があります。

毎日通学に片道約1時間かけており、週3で習いごともしている小学4年の娘は朝と帰宅後が時間との闘いです。「早く夕食(宿題・お風呂などを)しなさい!」と急かす私。「え~、ちょっと待って」ゲームなどリラックスしながらなかなか行動を起こさない娘。このやりとりが毎日、毎回繰り返し続きます。

そうこうしているうちどんどん就寝時間が迫ってくる・・・結果、娘の睡眠時間は短くなり、成長ホルモン分泌の機会(夜10時以降)を逃し、朝起きられず、朝食も摂れず・・このような不健康につながっていくようなループに入らせまいと必死になる中、娘に対する幾度の注意喚起がとうとう雷のような激しい怒りに変わります。

遂にそれをマグマのように刺々しい言葉として私の口から噴き出す事を抑えることができません。その時は娘も怒りモードに変わり、泣きじゃくり、収拾がつかない状況に。

クリスチャンになって5年以上も経ったものの、このような激しい怒りの感情が自分の内側に住んでいるのかと愕然とし、みじめな思いで神様に悔い改めをします。「神様、娘の命にもかかわることですので、本当に必死の思いで、つい・・」と言い訳したくなりますが、神様からの答えは「御霊の実である自制をもっと学ばなければならない、特に怒りの衝動を抑える必要がある」でした。

このように、日常の小さな家族とのやり取りを通じて、神様は私の罪をあぶりだし、そして悔い改めまでしっかり導いてくださいます。

古代イスラエルが神様を忘れたとき、古代ローマによるエルサレム崩壊の時、また恩恵期間が間もなく閉じるこの現代の終わりの時には、剣(戦争)、飢饉、疫病、野獣(テロ事件など)という一定のパターンをもって世に艱難が降りかかると聖書に書かれています。神様はそれが起こることを許され、その艱難から私たちを神に立ち返らせようとされることも書かれてあります。

今、人々の心は怒りに満たされています。会社では大人たちが怒りと憤りに満ちています。子供たちは親や先生のいうことを聞きません。そんな中、神様の民には「最後まで忍耐しなさい」との励ましの言葉があります。イエス様が経験された「忍耐」を身に着けるためには聖霊様を切に求め、変えられるように祈り続けることしか方法がありません。今日もこの約束を信じて聖霊様を求めていきたいと思います。

 

ヨハネの黙示録3:10

あなたが、わたしの忍耐について言ったことばを守ったから、わたしも、地上に住む者たちを試みるために、全世界に来ようとしている試練の時には、あなたを守ろう。

求めない先から必要なものを与えて下さる

「三育小 保護者の方との霊的分かちあいの時間」について教会に提案した時のことを証させていただきます。

私は東京三育小に4年の娘がおり、私自身も三育関町教会に所属しています。
私は娘と土曜礼拝に参加し始めたことをきっかけに、約2年前に、日曜教会からセブンスデー・アドベンチスト教会に導かれました。

このような証が私自身にありますので、お子さんを三育小に入れた保護者の方々の救いを、同じように願うようになりました。
保護者は毎週、お子さんたちとファミリー礼拝に参加されています。
お子さんたちが安息日学校に参加している間、保護者の方には「土曜のつどい」という聖書のお話の時間が持たれます。
ちなみに私はこの「土曜のつどい」の奉仕メンバーを担当しています。

ある日私は「土曜の集いで、5分、10分でもよいので、聖書のお話を聞いた後、2~3人の組になって一週間の分かち合いや互いに祈りあう時間を持てないでしょうか?」との相談を、牧師先生にもちかけました。

牧師先生はしばらくお考えになった様子でしたが、「とても良いと思います。私の聖書のお話の時間の中でちょっとやってみましょう」
とおっしゃってくださいました。
私とおなじように土曜礼拝に通い始めてから救われたお母さんたち姉妹も、この事に大賛成してくれました。
どうやって2~3人のグループにわかれたらよいか、など私は具体的に方法を考え始めていました。

さてこの提案を同じ奉仕グループのリーダ(もと三育小の事務の先生で今は引退された方)にもお話したところ、「いいですね!考えていきましょう」とおっしゃってくださいました。ところが次の週、次のようなレスポンスが返ってきました。
「特に1年生や2年生の親御さんはまだ教会に来たばっかり。いきなり分かち合いやお祈りの時間がある、となると抵抗感を感じて今後教会に来ていただけない懸念もある・・。もう少し、徐々にゆっくり、様子をみながらやっていきませんか?」

このようにまったく想定もしなかった回答に、戸惑いを覚えてしまった私でした。
・確かに、個人的な話をするのは苦手な方がいらっしゃるかも・・
・結局その時間をさけて皆さん帰ってしまうかも・・
・このことで保護者から学校にクレームの声が来るかもしれない・・

しかし私にはノンクリスチャン時代に人生で初めて教会で自分のために祈ってもらった時、不思議と癒しと慰めが与えられた経験がありました。
保護者の中で重荷を抱えている方で、お1人でも神様からの癒しが必要な方がいらしたら、その方のために一緒にお祈りできれば・・・。
お一人お一人が教会に招かれている、この事実は偶然ではない。
お祈りによって、神様の恵みの経験を具体的に体験してほしい!
このような気持ちを諦められませんでした。

この事を、同じ関町教会の信者でもある主人に相談してみました。すると
「まず信者のお母さん同士、先生同士の小さな祈りから初めてみては?」
とのことでした。私は、この時、はっとさせられました。

私自身が、実はホーム教会で祈りのパートナーと個人的に祈ることを切にもとめていたのではないか?
その事にとても飢え乾いていたのではないだろうか?

そこで、もう一人の奉仕の先生、この先生は信仰の先輩であり、元三育小保護者のお母さんでもある方に、礼拝後、今回の提案についてご相談しました。先生からも同じく、少し懸念するというご意見をいただきました。
ご相談のあと、私は先生に、「同じお母さんとして、この事について一緒に祈っていただけませんか?」とお願いしてみました。
すると先生は喜んで、すぐにその場で膝まずいて一緒に祈ってくださいました。
そして、お祈りのあと、私たちは「毎週この時間に一緒にお祈りしていきませんか」と自然に言い合えることができました!
信仰の友であるもう1人の保護者のお母さんも誘い、今3人で、関町教会で、小さな祈りの時間をもつことができています。
祈りあうことで共に笑い、共に泣き、もっとお互いを知る事ができ、もっとパートナーのために祈りたい!と自然に思えるようになりました。
このような思いもよらなかった恵みと導きを与えてくださった神様に感謝します。
この私たちの教会での小さな、小さな祈りの輪を、神様が今後豊かに用いてくださり、いつか保護者の方々、子供たちと祈りあえる日が来ることを切に願っています。

 

マタイによる福音書6:8

だから、彼らのまねをするな。あなたがたの父なる神は、求めない先から、あなたがたに必要なものはご存じなのである。