Latter Rain-Testimony (証)

日常の生活で生まれるクリスチャンの小さな証を綴っていきたいと思います。

弁護し、贖い出してくださる神 2023.6.18

以前、ブラック環境の職場で働いている私が日々神様からの試練があり、火の炉にいれて造り変えてくださるようお祈りしている、という証をさせていただきましが、その職場からいよいよ神様は「出よ」という指令を与えられました。

その指令が与えられたのは昨年の12月頭。社長から、「業績不振で今後も原価や人件費、輸送費などの高騰からビジネスの見通しが暗い。したがって、今の私のポジションを削減せざるを得ない」という内容でした。

私は、この通達は主がお許しになっていることである、とはっきり認識できたのですが、私の上司や今回と同じように以前やめてしまった同僚たちの口を通し、主は私に、「今回は自主退職ではなく、会社都合での退職である。退職条件を有利にするため弁護士に依頼しなさい」と言われました。

え?弁護士に依頼するなんて…「会社とことさら言い争うのですか?退職は主が決めたことですし私はそんなつもりはありません」と言いました。しかし、主は私を憐れんでそのように言ってくださったのでした。その後、心の声に従うまま、労働関係専門の弁護士を緊急に探し、会社と具体的な退職条件を面談する直前ギリギリにアポが取れる事務所が唯一あったので、その弁護士からアドバイスを受け、その通りに会社と面談を行いました。

すると、その後は全て、互いの弁護士同士の交渉のみとなりました。結果、退職交渉の煩わしさから完全に開放されただけでなく、次の転職活動のための十分な時間と和解金までが与えられたのです!また、その後の転職活動もスムーズに進み、今や新しい職場で働きはじめて2か月半が経過しました。皆様からの温かい祈りに支えられ、なんとか新たなスタートを切れています。あらためて感謝いたします。

この一連の経験を通して主がしてくださったことを、ちょっと詩編風に綴ってみました。

☆☆

主よ、あなたは不当な訴えから私の代わりに弁護をしてくださいました。あなたは完全な義をあらわしてくださる神。

主よ、ソドムから、私をついに救い出してくださいました。天使に導かれたロトのように。私はもはや後ろを振り向くことはありません。

そして、エジプトから逃れる時、私と私の家族を憐れみ必要な休息時間とエジプトの金銀を携えさせてくださいました。イスラエルの民にそれが与えられたように。

そして転職活動は毎日あなたにのみに導かれて行う事をはじめから決心していました。主の御心であれば、あなたの備えてくださっているカナンの地、新たな職場がすでに用意されていることを信じ。

正直、会社勤めはもう懲り懲りです、とあなたに何度か告白しました。しかし、今回の一連の経験を通じ、主が私にこの職種の仕事をずっと与え続けていてくださっていた事を悟りました。

私がこの仕事を選んでいたのではなく、実は主が初めから選んで私に与えてくださっていたのです。あなたは憐れみ深い神。

新しい職場で、主のため、人々のために働き、あなたの栄光を顕す者とさせてください。業務を行う上で、あなたの知恵、主体性、秩序、忍耐、静まり、そして人々の心に寄り添える、あなたのような憐れみの心と同情心を私にお与えください。

これからもとこしえに、どこにいようと、あなたにしか頼る場所はありません。あなたの言葉にしか頼りたくありません。

どうぞ全てにおいてお守りください、新しい地で、主よ、共に私と歩んでください。アーメン。

☆☆

わたしはあなたがたを取ってわたしの民とし、わたしはあなたがたの神となる。わたしがエジプトびとの労役の下からあなたがたを導き出すあなたがたの神、主であることを、あなたがたは知るであろう。

出エジプト記 6:7 口語訳

子供は親のお気に入りの気分や態度をミラーリングする

先日のスクールカウンセラーの先生とのお話の中で、先生は「その子が好むと好まざるにかかわらず、子供は親の好む気分や考え方、態度に合う言動をミラーリングのように模倣する」とおっしゃいました。私はこの言葉にも頭をぶつけるほどの衝撃がありました。今までなんとなく知識レベルでこの事は知っていましたが、今回これが実物教訓になったからです。私の心の内の気分や癖までをも幼い娘は敏感に感じ取って、無意識にそれをそのままそっくり模倣していたなんて…。でもそれは今までの事を振り返ると、確かに思い当たる事でした。

でもそれは私自身の子供時代の経験としても、全く同じであると同時に思いました。私自身も、親の気分や態度をミラーリングして日々生きてきたのかと思います。良くも悪くも、「両親が大好き、親に愛されたい、親と同じような気分になって共感したい」という必死の思いがそうさせていたのかもしれません。イエス様も天の父を全てミラーリングされているのです。でも、このような神も持ちあわせている人間の性質自体が、親子の愛や優しさのみならず罪の性質をも代々の世代に継承してしまう結果となっている、という事実を考えると、非常に悲しく、また恐ろしくなりました!

このように親から影響を受けてきた気分、態度、衝動などは本当にしつこいほど自分にしみついていて、それが「イエス様のご品性とはほど遠いもの」と気づくのは至難です。ですので、今回のように成長段階で子供が利己的になったり癇癪を起こす、などの気がかりな実が生りはじめたとき、イエス様が親である私に「自身の的外れ」を示して下さっていることは確実かと思いました。何故なら娘は私のほぼ全てに影響されて育っており、娘という「実」を見れば明白なのです。

それに気づく時、自ずと罪の性質を持った自分と対峙することになるため本当に絶望的になります。しかし同時になんという主からの愛と憐れみと恵みだろうとも思います。もはや、自分自身だけの問題ではありません。娘のために、必死にその示された罪を拭ってもらいたい・・・!とすがるような思いで主に毎日祈っています。

今回のカウンセリング全体を通してあらためて教えられ、心に浮かんだ聖句は黄金律と呼ばれる、マタイ7章12節です。これは娘が通う小学校の中心的なテーマ聖句でもあります。これまで何度も触れてきましたが、今回ほど身に染みた経験はありませんでした。主を褒めたたえ、感謝いたします。

 

だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である。

心を取り扱われる神様 2023.2.27

主よ、娘のことについて先日相談したスクールカウンセラーの先生との面談を通して、またあなたからの新たな気づき、教えがあったことを感謝します。

先生とのカウンセリングでは小4の1人娘がクラスの女子グループの中で彼女なりに悩んでいること、そのせいで時々「学校に行きたくない」と朝起きる時に渋っていること、また最近はiPadでのゲームやTikTokなどに夢中になっていること、さらに2学期の後半ぐらいからは学校の宿題を全く持ち帰らず、勉強の状態がどうなっているのかが全く分からないこと、これら親の胸の内の心配事を全てご相談しました。

さて、先生からのアドバイスとしては①子供をとにかく褒める②子供の心へのコンパッション(同情心)、よりそいを大切にする でした。まず、①の「褒める」については褒めすぎると我儘になったり親の期待値が高くなり、娘にとってもあまり良くないのでは?とも思い、今までそこまで重要視していなかったのですが、やはり少なくとも会話全体の6割はほめる言葉が必要とのことでした。今は、娘がしなければならないことを伝えるための会話が8割ほども占めているかもしれない…、と改めて反省しました。

そして②の「娘への心の寄り添い」については、私は頭をぶつけるほどの衝撃がありました。考えてみると私は昔から娘に自分自身の親としての考えや思い、行動をわかりやすく示すことにより、その姿を見て、聞いて、学んでほしいとどこかで思っていました。信仰についてもそうでした。しかし先生から今回言われたことはそうではありませんでした。私が娘の行動の裏に隠された心を凝視し、その心をしっかりと取り扱わなければならない、ということでした。私の背中を見てとにかくついてきなさい、ではなく、娘が辛そうな時や怒っている時には、とにかく心の内をきめ細やかな心でもって尋ね、娘の小さな心に、できるだけ寄り添ってあげることだったのです!本当に的外れだったと思いました。なぜなら、エス様も慰めたり、励ましたりして、悩む私の心を丁寧に取り扱ってくださるからです。私をよく観察し、真似をしてついてきなさい、などとはイエス様は決しておっしゃっていません。子育てを10年近くもしてきてやっとこの事に気づいたのでした。「子供だから、そこまでこまやかな傾聴が必要ではないのでは」とどこかで無意識に勘違いをしていた自分を、本当に悔い改めました。たとえ小さな子供でも相手からの心からの心のケアには敏感に反応できるのです、いや、子供だからこそ大人よりより敏感に反応できるのかもしれません。

早速娘に実践してみたところ、娘も自分の気持ちを母親が一番に優先してくれている、とわかったようで嬉しそうでした。はやりすべてのヒントはイエス様にあるのだ…と思った大変貴重な学びでした。イエス様から教えられたこの経験を、今後も娘に惜しみなく与えていきたいと願います。

主への感謝 ~精密検査の結果~ 2023.1.26

昨年末の衛生病院での人間ドッグで、眼圧と血尿、そしていつものように貧血にひっかかりました。また同じころ、更年期特有の症状なのか生理不順がおこっていました。

その他の部位については問題がなく体が守られたことを主に感謝しましたが、眼圧についてははじめてひっかかったのでネットで調べたところ緑内障の疑いについて示唆されました。血尿についても今回は結果が「+++」だったのでかなり心配になりこの2つを精密検査することにしました。生理不順については子宮筋腫の影もあるから周期を整えつつそれを小さくするための漢方薬をかかりつけ医から処方され、それを飲み始めました。

そして先日の精密検査の結果は・・・眼球は緑内障の症状もなく経過観察のみで問題なし、また血尿はおかしな顔をした細胞の出現や腹部エコーにも影がみられず問題なし(腎臓左右の高さが違うことで血尿が出たりすることもある)。また子宮筋腫は薬が予想以上の効果をもたらし大きさが縮小されている、また排卵も正常に起こっているとのことでした。実は15歳の時に卵巣の病気で左の卵巣摘出手術を受けて以来、右の卵巣が今まで一生懸命働いてきましたが、今この年になっても排卵を頑張っていると聞き、右の卵巣のことが非常に愛おしいと思いました。そしてますますこの神様から頂いた体をますます大切にしなければと思うとともに、主に感謝せずにはいられませんでした。

私達の想像を絶するまさしく神秘的な生体の機能や働きに驚くとともに、この御業を私たちの体の中で毎日成し遂げてくださり、今この時も細胞の細部まで互いに有機的に連携しながら動かしてくださっている神に、心から褒めたたえます。

 

詩篇 139:13-14

あなたはわが内臓をつくり、 わが母の胎内でわたしを組み立てられました。 わたしはあなたをほめたたえます。 あなたは恐るべく、くすしき方だからです。 あなたのみわざはくすしく、 あなたは最もよくわたしを知っておられます。

「その時のための備え」の記事を読んで 2023.1.7

アドベンチストライフ2022年12月号に、特集「その時のための備えをしましょう」と題して、終活についての記事がありました。記事によりますと終活とは、「最後まで自分らしくいられるために、元気なうちに前向きに自分が死ぬまでのことと、自分が死んだ後のことを具体的に考え、準備すること」でした。 

終活という言葉は日本でもブームになっているので知っていましたが、個人的にはあまり深くは考えていませんでした。私たちアドベンチストは「日々イエス様に生かされており、イエス様のご再臨がいつ来ても良いように今日を、今を、主にあって一生懸命感謝をもって生きていく」という考え方を持っていますので、ことさらこれ以上に何か加えて準備する必要があるのか?と無意識に思っていたのかもしれません。

しかし、記事を読み進めていくうちに、人生で自らが選択してきた受験、就職、転職、結婚、介護などのイベントと同様に、終末医療やケアの方法についても、自ら選択する権利があり、それをあらかじめ家族と話しあうことが重要だ、ということです。終末医療については今の健康な体のうちはなかなか想像できない事ですが、この考え方は自分自身のためだけではなく、残された家族にとっても悩むことなく医療方針を選択できるという、素晴らしい備えだということでした。ダビデも愛する息子ソロモンのために同じ考え方で備えたのです。

また別の記事では、教会でお葬式を挙げたかったのに、そのご希望を教会や周りの人に最終的にうまく伝達することができず、最終的にはお寺でお葬式を挙げられ、教会とは無縁の墓地に葬られた、というあるご婦人の例も掲載されていました。これは非常に悲しいことだと思いました。アドベンチスト信徒にとって死とは一時的な眠りであり、その後の復活、永遠の命という大きな希望があるのでお葬式についてはそんなに深刻に考えない傾向がもしかしたらあるのかもしれません。しかし、私たちのお葬式では好きな聖句、好きな讃美歌、信仰歴、証などを確かに公にお伝えできる場となります。また残されたご遺族や式に参加される方にとって、牧師先生から語られる希望のメッセージは、大きな慰めと励ましになり、またもしかしたら伝道のきっかけになる可能性もあります。この気づきは私にとって、大きいものでした。

そんな時、同時にふと私の母との会話が思いだされました。「実は、本音を言うと、夫(=私の父)の家のお墓に入りたくない。あんなせまいところに閉じ込められたくないから。それよりも、自分の骨は海など大自然にまき散らしてほしい。キリスト教のお葬式は明るいイメージで良いよね」

母は以外にもこんなにも明確に、自分の死後、どのようなお葬式にしたいか?どう葬られたいか?という強い意思を持っていたのでした。今では日本でも終活をブームに、宗教や先祖の枠を超え、いろんなスタイルの自分らしいお葬式が流行っていることも、このような意思の表れではないかと思います。また母がキリスト教式のお葬式に興味を持っているという事も、私にとっては一筋の希望のように思われました。

私はこの記事をきっかけに、まずは自分の終活準備、そして母の終活準備を今から一緒に始めたいという新たな心が与えられました。明日はどうなるか、母も私もわからないからです。そして終活においては、どうしても1人1人が自分の「死生観」と向き合う必要があり、そこでキリストが示してくださる死を超えた復活と再臨の希望を、母に改めて伝えることができるかもしれないからです。早速、終活やエンディングノートの書き方に関する書籍やセミナーなどを検索しましたが、沢山あり、どれを選択して良いかわからなかったので、思い切って公的資格にチャレンジし、勉強することにしました。新年のはじめにこのような決断が主から与えられたことに感謝です。

自然災害や戦争、テロの脅威がますます高まっている昨今、死の恐怖や死は誰にでも訪れます。終活で自分の生涯の幕の閉じ方を事前に考えることは逆に今を前向きに生きることであり、信者であれ未信者であれ、死を通る1人1人に必要である事を信じます。特に離れて住んでいる母の終活準備をどのように進めたらよいかは神様の霊、知恵と悟りが必要です。もちろん、毎朝ユナイテッド・プレイヤーに皆さんと参加し、聖霊を受け、主とともに行っていきたいと思います。

最後に2022年安息日学校聖書研究ガイド「永遠の命」P93 「天つ家郷」からの証の文の引用がちょうど心にささったので、お読みさせて頂きます。

主はまもなくおいでになります。心穏やかに、平安に満たされて、主にお目にかかることが出来るように、私たちは備えをしなければなりません。まず、周りの人たちに福音の光を伝える業に全身全霊をもってできる限りの力を尽くす決心を今こそすべきではないでしょうか。悲壮な思いではなく、喜びにあふれた快活な雰囲気で尊い働きをなしましょう。そのためにはいつも、私たちの前にイエスを置くことです。

品性を練られていく経験

昨日ユナイテッドプレイヤーの祈りの会で

させて頂いた証です。

先日の信仰の義によるディスカッションで、「救いとは何か?」という究極的で大きなテーマを皆さんと議論していた時、私は司会の方から突如指名されました。どうしよう・・・と思いながら回答しようとしたまさしくその時、小4年の娘にiPADの画面パスワード解除を執拗に迫られ、私はパニックになってしまい、必死で娘にあとからね、後からにして、とジェスチャーで伝えましたが彼女は全く聞き入れませんでした。そしてこの重要な問いに殆ど集中できない状態で回答するという結果となってしまいました。その後、私の中に怒りがこみあげてきました。それでどうもその怒りが収まらないので、必死にお祈りを求めました。ちょうど本日のために証が与えられる必要もあり、そのこともお祈りしようとしていました。すると祈りの最中に神様から「これと同じ証をしなさい」というメッセージが与えられました。というわけで、今日はその証をしたいと思います。

私の勤めている会社は恐らく世の中でいうブラックで、2年前に入社した新人社長はワンマン、冷血なほどビジネスライクで、社員に対する思いやりや共感など全くといっていいほど持ち合わせていない人です。彼のバックグラウンドはマーケティングで、マーケティング部門の私や私の上司には特に辛辣な態度をとります。他の社員の前で私たちを公然と叱責、罵倒します。この状態は彼が入社してから今もずっと続いています。

この2年は本当につらい経験が続いています。あまりにも一方的に批判されるので必死にこちら側も正当性を主張しますが効果がありません。すべて現場の私たちが悪い、という結論でした。どうしたら分かってもらえるのだろう?「ひとつのことでも忠実に」という聖句を胸に刻みつつこんなに必死に毎日働いているのに・・・かなりの絶望感と自己憐憫に陥ってしまい、心が疲れ切っていきました。

しかし前回の安息日学校聖書研究ガイド「試練を共にされるキリスト」を日々祈りの中で学んでいくうち、これは火を精錬される神様から与えられる必要不可欠な試練・とげである、とはっきり認識できるようになりました。最終時代を生き抜く私たちの場合、神様は「信仰による義」の奥義を成就させるため、一人一人の変えられなければならない品性を1つ1つ炉の中に入れ、それに気づかせ、余分なものを取り除き、最後には金のように練ってくださるというお約束があることを知りました。私はこの事を知った瞬間、絶望が希望に変わりました。認めたくはありませんが、クリスチャンになっても私の中に激しい怒り、相手への批判の心、プライドというものが確かにあったのです。神様はこの品性を、今の強烈な会社に私を置くことで除去されようとなさったのです。なんという神様からの恵みでしょう!ただ、それが分かってからも、幾度となく社長を批判し自己正当化したい強い誘惑に駆られそのGAPに苦しみました。けれども、日々この約束を信じて祈るうち、彼からの攻撃を受けても不思議と心が守られ、だんだん憤らなくなりました。自己正当化したい欲望は徐々に弱められ、黙って「はい」とだけ言えるようになりました。彼と対話するときにはその前に「イエス様が彼とお話ください」と祈るようにしました。そして社長のこの世に支配されている心に、憐れみのイエス様の心をもっとあらわしたいと思うようになりました。そしてその結果、最近では仕事や会議を沢山してもあまり疲れなくなりました。上司や同僚からは、「こんなひどい状況の中で、どうしてそんなにあなたは毎日元気に仕事ができるの?」と質問を受けるまでになりました。本当に驚きです。

今日も娘や夫、物事に怒りを覚える誘惑、他の社員が社長の悪口やゴシップをいうときに同感したくなる誘惑にかられますが、これも日々の試練が続いている証拠です。イエス様は確実に私を変えたいと思っておられます。その思いに応えるためには今日のようにまず真っ先に祈り求めて思い煩いを全て神様におゆだねします。そうすれば神様からのご指示や気づき、また自分の中の変化が必ず与えられることをまた改めて知りました。変化を与え、絶望を希望に変えてくださる私たちの神様とともにこれからも歩み続けます。

弱い人に対しては、弱い人のようになる

今週の安息日礼拝は4年の娘のクラスの男の子のバプテスマ式が別の教会であるので前々から家族で参加する旨を伝えていましたが、前日になり突如「明日は女の子4人のお友達と安息日学校のあと、公園で遊ぶ約束をした。その約束は絶対に破れない。それに、バプテスマ式にもいきたくない」と言い出しました。私はかなり焦り、「前からこの日にバプテスマ式があると言っていたでしょ。一生に一度の本当に大事なことだから、お友達もわかってくれるよ」と説得にかかりましたが全く娘は意見を変えません。私は次に「お母さんはあなたに心からお願いします。今日は一緒に行ってほしい」と懇願しましたが全く取り合ってくれません。そしてとうとう最後には「両親に従いなさい」と聖句で叱責を含んだ形で説得しようとしました。それでも無理でした。私は娘の心がどうか変えられるようにとその場で祈り、最終的には半ば強制的に連れていくことになってしまいました。式の間も娘は「やっぱり公園に行けばよかった・・・」と繰り返し私につぶやきました。

その後、よくよく娘から話を聞いてみるとバプテスマを受けた男の子や特に女の子のお友達とはいろいろな事が学校生活の中であったようで、娘なりに複雑な心境や葛藤を抱えていたようでした。

そのような時、私の頭の中にふと小学校の先生から聞いていた「ギャングエイジ」というキーワードが思い浮かびました。すぐにGoogleで調べてみました。すると、この時期の子供は急激な成長段階のため不安定で、自我や他者との関係性を強く意識し始め、自己憐憫にも陥りやすく、感情の起伏が激しい時、ということでした。さらに、この時期の子供に対しては大人の考えるあるべき論でなく、まずは思いを全て聞いて寄り添うことが大切、とも書いてありました。私は目からうろこでした。娘がこの中間反抗期と呼ばれるフェーズに入っていることを殆ど意識しないまま、私は今までのようにあるべき論で接していていたのです。娘がこの難しい時期に入ったこと、主が成長させてくださったことを確信、嬉しく思いました。そして、まずは娘の全てを丸々受け入れる必要があることを痛感しました。ギャングエイジの考えや思いは大人から見たらまだまだ未熟で、特に両親は子供に対してそれ(特に世的で聖書的に好ましくない考え方)を速やかに矯正したくなりますが、その衝動をぐっと横に置いて、まずは寄り添う必要があるのです。同時にパウロの聖句も思い出されました。


弱い人に対しては、弱い人のようになりました。弱い人を得るためです。すべての人に対してすべてのものになりました。何とかして何人かでも救うためです。

(コリントの信徒への手紙 1  9章22節 )

パウロのこの聖句はその前の19節から4節もかけて何とかして全ての人が神の救いを得るため、彼自身が奴隷のようになる必要があることを切実に述べている箇所です。パウロユダヤ人にはユダヤ人のように、律法主義者には律法主義者のように、(神の)律法を持たない人にはその人のように、また(信仰の)弱い人には弱い人のようになったと言っています。

ギャングエイジに限らず、人それぞれが抱えている背景や悩みをまずは丸々受け止めていく事が大切であることを、今回の経験とこの聖句を通じて実感しました。そこから初めて人の心の扉はゆっくりと開かれていくのです。やはり神様の言葉は真実で、愛と義のバランスは重要なんだと思いました。