Latter Rain-Testimony (証)

日常の生活で生まれるクリスチャンの小さな証を綴っていきたいと思います。

災害の渦中で赦しと平安が与えられる ―イエスの贖いと神の印― 2024.12.20

私はここ数年毎年人間ドッグを受診するなど体と心を健康に保つためのあらゆる努力をしてきました。しかし胸だけは経過観察が必要、ということで東京衛生病院の乳腺外来で見てもらっていました。そして今年9月、遂にエコーで怪しい影が見つかり、白黒つけましょうということで針生検を行った結果、乳がんが発見されました。 
針生検による精密検査、となった時から「どうしてわたしががんに…?」という思いがよぎりました。

そして、「やはりがんでした…」という告知を受けた時、初期で見つかったとは言え、想像以上にその事実が私に差し迫りました。そして次のような3つの思いが主から与えられたのです。
 
・ああ、命をつかさどっているのはあなたなのですね。いくら私が命を守ろうとしても、その命を生かすこと、奪うことはあなたが完全に支配権を握っておられるのですね。あなたのその絶対的な支配に、私は完全に屈服します。自分の命を日々自分で守っている気になっていた私は、なんと傲慢な者だったのでしょう!
・神様、私はあなたにこのがんを癒してほしいです。完全に癒して下さい!
・もし近日がんで命が絶たれるなら、まだやり残していることが多くあります。しかし、一番重要なことが、はっきりいたしました。2点あります。3天使の福音メッセージをまだ霊的バビロンにいるあなたの民に伝える。そして11歳の1人娘を主人とともに愛しぬき、全面的にサポートする。命ある限りこれを行わせてください。
 
以前姉妹からも同じような病の証を頂いておりましたが、自分にも同じような思いが与えられ、これは偶然ではない聖霊様の働きであることをはっきり認識しました。
 
義人の祈りには驚くほどの癒しの力があることを知っていたので、教会の牧師先生にまずご報告しお祈りを求めました。先生は、祈祷会を行う前に、エレン・ホワイト著 ミニストリー・オブ・ヒーリング16章「病人のための祈り」のところを読むよう言われたので早速読み始めました。気づいてはいましたが、この病気が引き起こされたのは今までの私の罪の結果である、ということでした。あなたの罪は“神に対して”犯してきたのだから、“神に対して”すべてそれを告白し、謝罪しなさい、という証の文のメッセージが強烈に私の胸に刺さりました。次に、今私のなかに芽生えているがん細胞が罪の根のように思えて末恐ろしくなりました。さらに恐ろしかったのは、これほどの病を生じさせるほど私は幾度も神様の御心を悲しませ、傷つけてきた、という事実でした。とにかく私は「神様本当にごめんなさい!」という思いで、生まれてこのかた犯してきた罪を、神の聖所の前にひれ伏し、泣きながら1つ1つ告白する経験を与えられたのでした。さらに、がん細胞を含め、私の心と魂からこの憎き“罪の思い”を根こそぎ取り除いてほしい、という思いがぴったりと重なりました。分かりやすいことに、がん細胞と罪は同じような性質だからです。わずかでも残っているとそれがやがて力を得、めきめきと成長してしまうのです。「ああ、この私の不信仰と穢れを完全に清め、癒し、赦していただくためには、十字架上で流されたイエスの尊い血によってでしか不可能です、どうか赦してください、助けてくださいイエス様!」このような切迫した祈りに変えられました。そしてついには「主であるイエス様は父と和解させてくださった、だから父は私の罪を赦して下さる」このように最後にははっきりと、深い父の赦しの安堵感を覚えるまでに至ったのです。
 
祈祷会当日、牧師先生はヤコブ5章の病人への油注ぎの祈りを私の主人とともに3名で行ってくださいました。実際に聖書にあるように、私の額にオリーブオイルを塗りつけながら祈ってくださいました。
 
'信仰による祈は、病んでいる人を救い、そして、主はその人を立ちあがらせて下さる。かつ、その人が罪を犯していたなら、それもゆるされる。 '
ヤコブの手紙 5:15
 
私はこの祈祷会においても罪に対する深い悔い改めの祈りを主に捧げたい、という心が与えられたので、それが祈りの言葉として口から溢れ出しました。心をあわせて一緒に祈っていただきました。
 
また 兄弟姉妹、ユナイテッドプレイヤーの皆様、家族、職場の上司にも乳がんを早々に告知してお祈りリクエストをしました。職場の上司は深い同情と励ましを示してくださり、クリスチャンでない方々にも神の似姿を見ることができました。
 
ある日、東京衛生病院での術前検査の結果に「手術方針を決定するための根拠になる情報が少し足りないのでは…?」と少しだけもやもやしていた最中、すでに告知していた母から電話で連絡があり、「あなたはがんなのだから、そしてせっかく東京に住んでいるのだから、夫と娘のためにもやはりがん専門機関や乳がんの実績の高い大学病院で治療を受けてほしい」と強く懇願されました。正直、私の心はひどく動揺しました。「イエス様、信仰の弱い私はどうしたらよいのでしょうか?母たちは私が信仰により盲目的に何の比較もせず衛生病院を選んでいると思っており、それを目覚めさせようとしています…。これはあなたへの迫害かもしれません。」セカンドオピニオンなどの考えも浮上する中、そうだ、納得できない点は執刀医の先生にもう一度ご相談したらいいのだ、という天からのお示しがありました。そこですぐ外来の予約をすることができました。また、衛生の乳腺外科がどれだけ素晴らしいか、施設や症例数の比較、とくに乳がんでは標準診断・治療がしっかり確立されていてどの医療機関でも十分正しい医療が受けられる、などを改めて詳細に調べることが出来、それを全て伝えたところ母と妹にはほぼ安心してもらえました。そして祈りと医療伝道あふれる衛生病院で治療が受けられることを改めて主に感謝しました。
 
そして入院当日。夕方には教会員の姉妹が病室に励ましと祈りに来てくれました。また姉妹たちのお計らいで病院チャプレンの永田先生も来てくださり、深いお祈りをして頂きました。翌日の手術直前には病院チャプレンの東先生も来てくださり、そして手術室では執刀医の先生が、まさしく麻酔導入前に、「あなたが私たちに癒しの御業を行ってください」と祈ってくださいました。予定通り手術が順調に終わったころ、同じ病院を過去に患った姉妹がちょうどお見舞いに来てくれました。彼女は同じ乳がんの経験と証をお持ちで、入院前から多くの励ましとアドバイスとお祈りを頂いていました。ちょうど麻酔が切れかかっていたところだったので彼女に直接お目にかかれずとても残念でしたが、伝道の本や入院生活で助かるものをすべて病室まで届けてくださり、また同じ時間に同じ場所で祈り続けてくださいました。そのおかげか、術後の痛みと苦しみはほとんどありませんでした。その後の夕食も爽やかな気分で頂くことができました。病室でもユナイテッドプレイヤーに参加でき、私のために皆さんが祈ってくださり大きな感動で涙が溢れました。また衛生の歯科医の姉妹、牧師先生ご夫妻もお見舞いに来てくださり、共にお祈りしてくださいました。ここまで祈っていただける私とは、いったい何者でしょう?ここまで面倒をみて愛してくださる神様、あなたはどれだけ慈悲深い方なのでしょう?私はそのような思いに圧倒され続けました。
 
東先生に手術直前にご訪問いただきお話した際、「もうまもなく手術がはじまるというのに、こんなに穏やかでゆったりとした気持ちの患者さんとはこの衛生でもあまり出会ったことがありません。逆に私が励まされています」とおっしゃいました。私自身、できるだけリラックスしよう、と努めていた訳ではないのです。でも私の心は言い表すことができない平安と感謝で満たされていました。もし主を知らなかったら、悔い改めと父との和解の懇願の祈りがなかったら、皆様のとりなしの祈りがなかったら…、私はがんや麻酔や手術をどれだけ恐れていたでしょうか。
 
同じ病室になった若い女性は違う病気ではありましたが、連日ご主人様とご家族に最終面会時間ぎりぎりまで帰らないでほしい、と頼んでおられました。また手術直後もしばらくは痛みと苦しみの声が聞こえ、退院日になっても痛み止めを止めることが出来ず、私は隣で必死に彼女の癒しのために祈りました。さて最近教会でも黙示録を小グループで勉強させて頂いているのですが、この経験の中で、神の裁きである7つのラッパの聖句がふと頭をよぎったのです。
 
'彼らは、地の草やすべての青草、またすべての木をそこなってはならないが、額に神の印がない人たちには害を加えてもよいと、言い渡された。 '
 
 がんは現代病である意味災害と同じ、と言われています。この最終時代、神の民であっても疫病や災害からは残念ながら逃れられません。さらに預言によると、神の最後の裁きの業は今後激しくなる一方なのです。今私たちはまさに日々の世界ニュースでそのことを実感しています。しかし、神の印が押されている者たちはその災害から“霊的”に守られるのです…!残念ながらその若い女性にイエス様のこと、3天使のメッセージを伝えるチャンスは今回与えられませんでしたが、実体験としての「災いの渦中で霊的平安が守られる奇跡、神の印」を証するためにも、今回私は乳がんという病気を与えられたのだ、確信するに至りました。
 
神の民の心は、魂は、必ず贖われ、そして災いから守られるのです。皆様の今までの数々の感動の証を聞くにつけてもその確信があります。これこそが、永遠の福音だと思っています。この与えられた福音を絶えず証人(あかしびと)として伝えていく必要があります。伝えていくための方法を祈りもとめていきたいと思います。同じ目的で前進できる皆様に、主の家族に感謝いたします。

親の祈りは聞かれている、育てるのはやはり神 2025.3.15

先日、東京三育小学校に通う6年生の娘の初めての卒業祈祷週での証を、ドキドキしながらも保護者として夫と一緒に無事聞くことができました。

さてこの6年間、娘が毎週安息日学校に行く目的は、仲良しのお友達と会うためであって、学校の先生や牧師先生のお話を聞くことや教会員さんたちとお会いする事では全くないようでした。

1年生の時からじっとしているのが苦手な娘は、お説教中も「あと何分で終わる?」とそわそわしながらなんども私に聞いてくる始末。そしてようやく説教がお昼頃におわった瞬間、「おなかすいたから早く帰ろう」となり、彼女がその後クラスのお友達と遊びに行くとき以外はろくに私も教会員さんたちと落ち着いて交わる時間もありませんでした。また6年間学校で定期的に首都圏近郊の牧師先生による祈祷週がありましたが、その感想なども一切家で話すことはなく、興味をもって私が質問しても、ろくに答えてくれない状態でありました。

もちろん娘が学校でどう過ごしているかは殆ど確認することができませんが、家庭での過ごし方を見ていても、YouTubeやTikTokから絶え間なく流れるトレンディーで世的な情報を非常に楽しんでおり、「この子ははたして神様の愛を知っているのだろうか…」と常に考えるほどでした。他のノンクリスチャンのご家庭のお子さんのほうがよっぽど従順かつピュアで、神様を愛しているようにも思えました。「私は神様を本当に愛しているけれど、母親としての信仰や子供への愛が不足しているのだろうか?娘が不従順なのは、私が神様や夫に対して不従順だからだろうか?それとも過去から現在までに至る私の罪からの報酬なのだろうか?」このようによく考えては落ち込みました。特に娘が学生の義務でもある宿題などを全く行おうとせず注意しても両親に非常に反抗的で我儘な態度をとった時、これは聖書的ではないと思いながらも娘の中に自分と全く同じ罪深さを見つけては落胆する気持ちとあいまって激しく叱ってしまい、結果家族全員がヒートアップし、とてもクリスチャンが2名もいる家とは思えないようなみじめな状態に陥ったものでした。

でもそんな中、私も姉妹からのお誘いで早朝のユナイテッドプレイヤーに参加させて頂くことになり、祈りには非常に大きな力があることを皆様の証から数々お伺いする経験を得たこともあり、娘について毎朝具体的に祈り始めるようになりました。娘のためにいつも祈っている聖句はヨハネ14章の16-17です。

「わたしは父にお願いしよう。そうすれば、父は別に助け主を送って、いつまでもあなたがたと共におらせて下さるであろう。 17それは真理の御霊である。この世はそれを見ようともせず、知ろうともしないので、それを受けることができない。あなたがたはそれを知っている。なぜなら、それはあなたがたと共におり、またあなたがたのうちにいるからである。」

そしてこの聖句の後、続けてこう祈りました。「神様。娘の罪の部分が見えるとすぐ肉の愛ゆえに指摘したり忠告したりしてしまうこの私の強い衝動、恐るべき自我、コントロール欲をすべて破棄したいです。これらから私を完全に解放してください。また私の助言が彼女を支配するのではなく、完全に聖霊様だけに彼女が支配されますように。」

このように「親としての思いや権限を全てあきらめ、娘のすべてを神に委ねきる」と決めた頃から、少しずつ状況に変化が見られたのです。卒業後の進路の選択、三育中等学校に入るための面接、苦手な算数や国語の勉強のことなど、主がすべて良き方向に前に進めてくださいました。そしてここ数日は希望の中で「6年間のあなたとの歩みの集大成である卒業祈祷週での証について、すべて主が娘を遣わし準備を整えてくださいますように」という祈りでした。

そしていよいよ証の当日。娘の証のタイトルは「神様の導き」。当日録音したのでかいつまんでその内容を説明させていただきます。私はヨナに親近感がある。ヨナは嵐にあった経験、魚に飲み込まれた経験、救出されニネベにたどり着いた経験は全て神様ご自身がされたことだと知っていた。ヨナの悔い改めがニネベの悔い改めをもたらしたことも。私は以前幼馴染と大喧嘩して面と向かうことが嫌で逃げてしまった。しかし別の友からの忠告によりしぶしぶ和解を試みたところ、お互い誤解していたことがわかり前より仲が深まった。嫌なことから逃げてしまうこと、それに直視できないこと、しかしきちんと悔い改めたらより良くなること、このような点がヨナの経験との共通点だと思う。「主御自身があなたに先立って行き、主御自身があなたと共におられる。(申命記31:8)」ヨナが悔い改めニネベに行くことを決めたとき、私が幼馴染との仲直りを選んだとき、その場には神様が共にいてくださり、私たちを導いていてくださっていた。そして神様は私たちが出くわす様々な困難に備えその状況と似ている話を聖書に記し、その解決法を教えておられる。神様は聖書を用いて私たちを導いてくださっている。これからも神様の導きを信じ、歩んでいきたい。

この証を聞いて、私は思わずアーメン!と胸の中で唱えていました。そして同時にさらなる確信が与えられました。

ひとつは、主は親の祈りを聞いてくださるということです。すべてを神におゆだねした時、神様は確実に私の祈りを聞いてくださったのです。また具体的な祈りは聞かれる、ということ。

そしてもう1つは、子供を育てているのは私の情熱や愛ではなく、主の思い、主の情熱、主の霊であった、ということ。この事を実物教訓で今回学びました。現に、私は彼女の証にあるような聖書的な話を恥ずかしながらほとんど互いに交わしたことがないのです。でも神様は確実に彼女に「神様が何をしてくださるお方か」をしっかり教えてくださっていたのでした!そして聖書の権威も彼女に教えたのです。

そういうわけで、この4月から彼女も千葉で中学寮生活をスタートさせますが、互いに砕かれた心で祈り、主によき方向に導かれるようこれからも希望をもって祈っていきたいと思います。

神とともに行うブレイクスルー 2025.4.19

私が仕事で体験した一つの出来事を通して、神様が私に教えてくださった大切な気づきについてお話ししたいと思います。テーマは「神とともに行うブレイクスルー」です。

先日、職場で上司との前年度の業績評価の面談がありました。自分と上司で期首に設定した目標についてまず自己評価を行い、その後に上司から最終的な評価をいただくという、年に一度の大切な面談です。私は、ある程度自分の頑張りを実績で示せたと感じていたので、ある意味少し期待もして臨んだのですが、結果は意外にも自己評価より1.5ポイントも低いものでした。

しかも、その評価を下げた理由というのが、期初に上司と設定していなかった観点からの指摘であったことにショックを受けました。「それなら期中にそれを指摘していてくれていたら、ちゃんと対応ができたのに」「評価ってそんな風に変えられてしまうものなのだろうか」──そんな思いが込み上げてきて、面談後もしばらくモヤモヤした気持ちを引きずっていました。

しかし、その出来事をきっかけに、改めて「そもそも人事評価とは何なのか?」「なぜ私はここまで心を乱されたのか?」と、自分の内面と向き合う時間を持ちました。そして調べていく中、「人事評価は単なる昇進や報酬の判断材料ではなく、個人の成長を支援するための仕組みでもある」という考えを改めて思い出すことが出来ました。

その中でも特に心に残ったのは、「コンピテンシー評価」という概念でした。これは、業務スキルや成果だけでなく、「その人がまずどんな角度でどんな課題意識を持ち、それに対して適切な目標を定めているか」「その目標に対してどんな行動を日々とっているか」を評価する考え方です。このコンピテンシーは5段階でレベル分けされています。レベル1は「先輩に教わりながら対応」、レベル2は「マニュアルを見ながら自分で対応」、レベル3は「多少の困難を、経験等をもとに自力で乗り越えられる」。ここまでは何とか想像できる範囲でした。しかし、レベル4は「不可能に思えるような障害が目の前にあってもあえて挑戦、周囲を巻き込みつつ達成する」、これが「ブレイクスルー」と呼ばれるレベルです。そして、レベル5になると、まだ誰もやったことがないような事に挑戦、そしてしっかり成果を出す、これは「イノベーション」とされていました。このレベル5までで来ると、ほんの一握りの人しか到達できないとも言われているようです。

私は改めて自分自身を振り返りました。仕事でも信仰でも、もしかすると私は「できる範囲でベストを尽くす」「障害があったら自ずと断念」というレベル3にとどまっていたかもしれない、と。

中でも、レベル4の項目にあった「ブレイクスルー」という言葉が、私の心に深く残りました。

レベル4では、「不可能に見えるような課題にあえて挑戦すること」が求められています。レベル3までなら、自分の力である程度の困難を乗り越えるという範囲で評価されますが、レベル4からは、自分では一見越えられないような壁に、自らの意思で飛び込んでいく姿勢が問われるのです。

そして、ここで私は、ある霊的な気づきを与えられました。それは、「ブレイクスルー」とは、ただ神様に祈るだけで上から与えられる恵みではなく、私自身がその高みを目指して歩み出そうと決め、かつ実行したときに、はじめて神様が力を与えてくださるものなのではないか?ということです。

これまでの私は、どこかで「神様が助けてくださるなら、なんとかなる」と受け身で考えていた部分があったかもしれません。しかし、主はただ待っている者に力を注がれるのではなく、「御心に応答して挑戦しようとする者」「自分の限界を超えてでもイエス様とともに御心を成し遂げたいと願う者」に、その力を注いでくださる方なのだと示されたのです。

これは、イエス様の生き方にも表れています。主は、十字架という最大の困難を前にしても退かれることなく、むしろその苦しみのただ中にご自身の意志で進まれました。ゲッセマネの園では、「この杯を取り除けてください」と祈られましたが、最終的には「御心のままに」と従順に応じられました。イエス様ご自身こそが、神とともに人類のだれをも“越えられなかった壁”に挑まれたお方、レベル5のイノベーションを達成されたお方だと思うのです。

この主の姿を思い起こすとき、「挑む意志なくしてブレイクスルーなし」という霊的原則があることを、より深く理解させられます。**信仰とは、ただ待つことではなく、御心に応答して踏み出すこと。**その一歩を踏み出した者に、神は惜しみなく力を注いでくださることを、より深く理解させられます。

また私はこの気づきに加えて、もう一点重要なことを学びました。それは、「会社と従業員との契約である人事評価」と「神様と私たちとの契約である聖書」との類似性と違いについてです。地上で行われている人事評価では評価者は被評価者である部下のすべての能力を知り尽くして評価している訳ではありません。また、私の例のように期首に定めた目標、すなわち会社との約束も変動することが多々あります。しかしこれとは対照的に、神様は私たち1人1人の能力も弱さも知り尽くされており、かつ明確に聖書や十戒ですべきこと、してはならないことを変わらぬ契約としてあらかじめ示してくださっています。また公正に私たちを評価してくださるお方です。

神様は、私たちがどうしたら本来の幸せや目的を最大限に発揮できるかを知り尽くしておられます。そして、神様こそが究極の「よきマネジャー」であり、「導き手」であり、「評価者」であると改めて感じました。だからこそ、「人事評価」における後出し条件というのは約束違反として、誰からも嫌煙されるのだということも理解しました。

わたしはわが契約を破ることなく、わがくちびるから出た言葉を変えることはない。詩篇 89:34 口語訳

 

このすべての導きと気づきを与えてくださった主に、心から感謝いたします。

新しい職場に導く神様 2023/3/19

主よ、あなたのタイミングで私を全く新しい職場に導いてくださった、一連のあなたの御業に驚きと感動を覚えずにはいられません。主は今も生きて働いておられます。アーメン。

あなたはソドムから、エジプトから、私をついに救い出してくださいました。天使に導かれたロトのように。私はもはや後ろを振り向きませんでした。

そして、エジプトから逃れる際、後の生活にも困らないよう、私と私の家族を憐れみ沢山の休息時間とエジプトの金銀を携えさせてくださいました。イスラエルの民にそれが与えられたように。

そして転職活動は毎日あなたにのみ導かれて行う事をはじめから決心していました。あなたの備えてくださっているカナンの地、新たな職場がすでに用意されていることを信じ、それを確信していたからです。

年末に御心のままにいくつかの転職エージェントに登録し、あるエージェントから30件もの求人案件が送られてきたため、聖霊を求めながら夫とも相談しどの会社に応募するか決め、すぐそれを実行しました。

そして年始にその応募の中の1社から、早速面接が入り、どんどんと1次、2次、最終面接とストレスなく進み、そしてついに昨日その会社から応募からわずか1か月半の間で内定を頂くことができたのです…!そして信じられないことに、その会社や仕事内容、勤務条件も全て私の願いに叶っていました。ハレルヤ!主を讃美します。主に感謝をささげます。

正直、会社勤めはもう懲り懲りだ、と思いキャリアチェンジも考えたり、今までとは別の職種にも応募してみたのですが主が許してくださいませんでした。また、その他の応募した会社についても全て面接まで進まなかったり、進んだとしても途中でNGになったりしました。何故なら、私が、「わかりやすいように、あなたの準備してくださっている次の会社、次の仕事をお示しください」と毎日祈っていたからです。主よ、あなたは確実に祈りを聞いて下さるお方です。

転職先でも大変苦労の多い仕事になることは確実なのですが、主が私にこの仕事をずっと与えてくださっていたということを、改めて知る事ができました。私がこの仕事を選んでいたのではなく、実は初めから主が選んで与えてくださっていたのです。そうであれば、なおさらまたこの仕事にチャレンジしよう、という、新しい勇気が与えられました。もはや自分の意思ではありません。ただあなたの御心にのみ従いたいです。

4月からの新しい職場では、主のため、人々のために働き、あなたの栄光を顕す者とさせてください。業務を行う上で、あなたの知恵、主体性、秩序、忍耐、静まり、そして何よりも人々の心に寄り添う同情心を私にもお与えください。

これからもとこしえに、どこにいようと、あなたにしか頼る場所はありません。あなたにしか頼りたくありません。

どうぞ全てにおいてお守りください、新しい地で、共に私と歩んでください。

弁護し、贖い出してくださる神 2023.6.18

以前、ブラック環境の職場で働いている私が日々神様からの試練があり、火の炉にいれて造り変えてくださるようお祈りしている、という証をさせていただきましが、その職場からいよいよ神様は「出よ」という指令を与えられました。

その指令が与えられたのは昨年の12月頭。社長から、「業績不振で今後も原価や人件費、輸送費などの高騰からビジネスの見通しが暗い。したがって、今の私のポジションを削減せざるを得ない」という内容でした。

私は、この通達は主がお許しになっていることである、とはっきり認識できたのですが、私の上司や今回と同じように以前やめてしまった同僚たちの口を通し、主は私に、「今回は自主退職ではなく、会社都合での退職である。退職条件を有利にするため弁護士に依頼しなさい」と言われました。

え?弁護士に依頼するなんて…「会社とことさら言い争うのですか?退職は主が決めたことですし私はそんなつもりはありません」と言いました。しかし、主は私を憐れんでそのように言ってくださったのでした。その後、心の声に従うまま、労働関係専門の弁護士を緊急に探し、会社と具体的な退職条件を面談する直前ギリギリにアポが取れる事務所が唯一あったので、その弁護士からアドバイスを受け、その通りに会社と面談を行いました。

すると、その後は全て、互いの弁護士同士の交渉のみとなりました。結果、退職交渉の煩わしさから完全に開放されただけでなく、次の転職活動のための十分な時間と和解金までが与えられたのです!また、その後の転職活動もスムーズに進み、今や新しい職場で働きはじめて2か月半が経過しました。皆様からの温かい祈りに支えられ、なんとか新たなスタートを切れています。あらためて感謝いたします。

この一連の経験を通して主がしてくださったことを、ちょっと詩編風に綴ってみました。

☆☆

主よ、あなたは不当な訴えから私の代わりに弁護をしてくださいました。あなたは完全な義をあらわしてくださる神。

主よ、ソドムから、私をついに救い出してくださいました。天使に導かれたロトのように。私はもはや後ろを振り向くことはありません。

そして、エジプトから逃れる時、私と私の家族を憐れみ必要な休息時間とエジプトの金銀を携えさせてくださいました。イスラエルの民にそれが与えられたように。

そして転職活動は毎日あなたにのみに導かれて行う事をはじめから決心していました。主の御心であれば、あなたの備えてくださっているカナンの地、新たな職場がすでに用意されていることを信じ。

正直、会社勤めはもう懲り懲りです、とあなたに何度か告白しました。しかし、今回の一連の経験を通じ、主が私にこの職種の仕事をずっと与え続けていてくださっていた事を悟りました。

私がこの仕事を選んでいたのではなく、実は主が初めから選んで私に与えてくださっていたのです。あなたは憐れみ深い神。

新しい職場で、主のため、人々のために働き、あなたの栄光を顕す者とさせてください。業務を行う上で、あなたの知恵、主体性、秩序、忍耐、静まり、そして人々の心に寄り添える、あなたのような憐れみの心と同情心を私にお与えください。

これからもとこしえに、どこにいようと、あなたにしか頼る場所はありません。あなたの言葉にしか頼りたくありません。

どうぞ全てにおいてお守りください、新しい地で、主よ、共に私と歩んでください。アーメン。

☆☆

わたしはあなたがたを取ってわたしの民とし、わたしはあなたがたの神となる。わたしがエジプトびとの労役の下からあなたがたを導き出すあなたがたの神、主であることを、あなたがたは知るであろう。

出エジプト記 6:7 口語訳

子供は親のお気に入りの気分や態度をミラーリングする

先日のスクールカウンセラーの先生とのお話の中で、先生は「その子が好むと好まざるにかかわらず、子供は親の好む気分や考え方、態度に合う言動をミラーリングのように模倣する」とおっしゃいました。私はこの言葉にも頭をぶつけるほどの衝撃がありました。今までなんとなく知識レベルでこの事は知っていましたが、今回これが実物教訓になったからです。私の心の内の気分や癖までをも幼い娘は敏感に感じ取って、無意識にそれをそのままそっくり模倣していたなんて…。でもそれは今までの事を振り返ると、確かに思い当たる事でした。

でもそれは私自身の子供時代の経験としても、全く同じであると同時に思いました。私自身も、親の気分や態度をミラーリングして日々生きてきたのかと思います。良くも悪くも、「両親が大好き、親に愛されたい、親と同じような気分になって共感したい」という必死の思いがそうさせていたのかもしれません。イエス様も天の父を全てミラーリングされているのです。でも、このような神も持ちあわせている人間の性質自体が、親子の愛や優しさのみならず罪の性質をも代々の世代に継承してしまう結果となっている、という事実を考えると、非常に悲しく、また恐ろしくなりました!

このように親から影響を受けてきた気分、態度、衝動などは本当にしつこいほど自分にしみついていて、それが「イエス様のご品性とはほど遠いもの」と気づくのは至難です。ですので、今回のように成長段階で子供が利己的になったり癇癪を起こす、などの気がかりな実が生りはじめたとき、イエス様が親である私に「自身の的外れ」を示して下さっていることは確実かと思いました。何故なら娘は私のほぼ全てに影響されて育っており、娘という「実」を見れば明白なのです。

それに気づく時、自ずと罪の性質を持った自分と対峙することになるため本当に絶望的になります。しかし同時になんという主からの愛と憐れみと恵みだろうとも思います。もはや、自分自身だけの問題ではありません。娘のために、必死にその示された罪を拭ってもらいたい・・・!とすがるような思いで主に毎日祈っています。

今回のカウンセリング全体を通してあらためて教えられ、心に浮かんだ聖句は黄金律と呼ばれる、マタイ7章12節です。これは娘が通う小学校の中心的なテーマ聖句でもあります。これまで何度も触れてきましたが、今回ほど身に染みた経験はありませんでした。主を褒めたたえ、感謝いたします。

 

だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である。

心を取り扱われる神様 2023.2.27

主よ、娘のことについて先日相談したスクールカウンセラーの先生との面談を通して、またあなたからの新たな気づき、教えがあったことを感謝します。

先生とのカウンセリングでは小4の1人娘がクラスの女子グループの中で彼女なりに悩んでいること、そのせいで時々「学校に行きたくない」と朝起きる時に渋っていること、また最近はiPadでのゲームやTikTokなどに夢中になっていること、さらに2学期の後半ぐらいからは学校の宿題を全く持ち帰らず、勉強の状態がどうなっているのかが全く分からないこと、これら親の胸の内の心配事を全てご相談しました。

さて、先生からのアドバイスとしては①子供をとにかく褒める②子供の心へのコンパッション(同情心)、よりそいを大切にする でした。まず、①の「褒める」については褒めすぎると我儘になったり親の期待値が高くなり、娘にとってもあまり良くないのでは?とも思い、今までそこまで重要視していなかったのですが、やはり少なくとも会話全体の6割はほめる言葉が必要とのことでした。今は、娘がしなければならないことを伝えるための会話が8割ほども占めているかもしれない…、と改めて反省しました。

そして②の「娘への心の寄り添い」については、私は頭をぶつけるほどの衝撃がありました。考えてみると私は昔から娘に自分自身の親としての考えや思い、行動をわかりやすく示すことにより、その姿を見て、聞いて、学んでほしいとどこかで思っていました。信仰についてもそうでした。しかし先生から今回言われたことはそうではありませんでした。私が娘の行動の裏に隠された心を凝視し、その心をしっかりと取り扱わなければならない、ということでした。私の背中を見てとにかくついてきなさい、ではなく、娘が辛そうな時や怒っている時には、とにかく心の内をきめ細やかな心でもって尋ね、娘の小さな心に、できるだけ寄り添ってあげることだったのです!本当に的外れだったと思いました。なぜなら、イエス様も慰めたり、励ましたりして、悩む私の心を丁寧に取り扱ってくださるからです。私をよく観察し、真似をしてついてきなさい、などとはイエス様は決しておっしゃっていません。子育てを10年近くもしてきてやっとこの事に気づいたのでした。「子供だから、そこまでこまやかな傾聴が必要ではないのでは」とどこかで無意識に勘違いをしていた自分を、本当に悔い改めました。たとえ小さな子供でも相手からの心からの心のケアには敏感に反応できるのです、いや、子供だからこそ大人よりより敏感に反応できるのかもしれません。

早速娘に実践してみたところ、娘も自分の気持ちを母親が一番に優先してくれている、とわかったようで嬉しそうでした。はやりすべてのヒントはイエス様にあるのだ…と思った大変貴重な学びでした。イエス様から教えられたこの経験を、今後も娘に惜しみなく与えていきたいと願います。