Latter Rain-Testimony (証)

日常の生活で生まれるクリスチャンの小さな証を綴っていきたいと思います。

「その時のための備え」の記事を読んで 2023.1.7

アドベンチストライフ2022年12月号に、特集「その時のための備えをしましょう」と題して、終活についての記事がありました。記事によりますと終活とは、「最後まで自分らしくいられるために、元気なうちに前向きに自分が死ぬまでのことと、自分が死んだ後のことを具体的に考え、準備すること」でした。 

終活という言葉は日本でもブームになっているので知っていましたが、個人的にはあまり深くは考えていませんでした。私たちアドベンチストは「日々イエス様に生かされており、イエス様のご再臨がいつ来ても良いように今日を、今を、主にあって一生懸命感謝をもって生きていく」という考え方を持っていますので、ことさらこれ以上に何か加えて準備する必要があるのか?と無意識に思っていたのかもしれません。

しかし、記事を読み進めていくうちに、人生で自らが選択してきた受験、就職、転職、結婚、介護などのイベントと同様に、終末医療やケアの方法についても、自ら選択する権利があり、それをあらかじめ家族と話しあうことが重要だ、ということです。終末医療については今の健康な体のうちはなかなか想像できない事ですが、この考え方は自分自身のためだけではなく、残された家族にとっても悩むことなく医療方針を選択できるという、素晴らしい備えだということでした。ダビデも愛する息子ソロモンのために同じ考え方で備えたのです。

また別の記事では、教会でお葬式を挙げたかったのに、そのご希望を教会や周りの人に最終的にうまく伝達することができず、最終的にはお寺でお葬式を挙げられ、教会とは無縁の墓地に葬られた、というあるご婦人の例も掲載されていました。これは非常に悲しいことだと思いました。アドベンチスト信徒にとって死とは一時的な眠りであり、その後の復活、永遠の命という大きな希望があるのでお葬式についてはそんなに深刻に考えない傾向がもしかしたらあるのかもしれません。しかし、私たちのお葬式では好きな聖句、好きな讃美歌、信仰歴、証などを確かに公にお伝えできる場となります。また残されたご遺族や式に参加される方にとって、牧師先生から語られる希望のメッセージは、大きな慰めと励ましになり、またもしかしたら伝道のきっかけになる可能性もあります。この気づきは私にとって、大きいものでした。

そんな時、同時にふと私の母との会話が思いだされました。「実は、本音を言うと、夫(=私の父)の家のお墓に入りたくない。あんなせまいところに閉じ込められたくないから。それよりも、自分の骨は海など大自然にまき散らしてほしい。キリスト教のお葬式は明るいイメージで良いよね」

母は以外にもこんなにも明確に、自分の死後、どのようなお葬式にしたいか?どう葬られたいか?という強い意思を持っていたのでした。今では日本でも終活をブームに、宗教や先祖の枠を超え、いろんなスタイルの自分らしいお葬式が流行っていることも、このような意思の表れではないかと思います。また母がキリスト教式のお葬式に興味を持っているという事も、私にとっては一筋の希望のように思われました。

私はこの記事をきっかけに、まずは自分の終活準備、そして母の終活準備を今から一緒に始めたいという新たな心が与えられました。明日はどうなるか、母も私もわからないからです。そして終活においては、どうしても1人1人が自分の「死生観」と向き合う必要があり、そこでキリストが示してくださる死を超えた復活と再臨の希望を、母に改めて伝えることができるかもしれないからです。早速、終活やエンディングノートの書き方に関する書籍やセミナーなどを検索しましたが、沢山あり、どれを選択して良いかわからなかったので、思い切って公的資格にチャレンジし、勉強することにしました。新年のはじめにこのような決断が主から与えられたことに感謝です。

自然災害や戦争、テロの脅威がますます高まっている昨今、死の恐怖や死は誰にでも訪れます。終活で自分の生涯の幕の閉じ方を事前に考えることは逆に今を前向きに生きることであり、信者であれ未信者であれ、死を通る1人1人に必要である事を信じます。特に離れて住んでいる母の終活準備をどのように進めたらよいかは神様の霊、知恵と悟りが必要です。もちろん、毎朝ユナイテッド・プレイヤーに皆さんと参加し、聖霊を受け、主とともに行っていきたいと思います。

最後に2022年安息日学校聖書研究ガイド「永遠の命」P93 「天つ家郷」からの証の文の引用がちょうど心にささったので、お読みさせて頂きます。

主はまもなくおいでになります。心穏やかに、平安に満たされて、主にお目にかかることが出来るように、私たちは備えをしなければなりません。まず、周りの人たちに福音の光を伝える業に全身全霊をもってできる限りの力を尽くす決心を今こそすべきではないでしょうか。悲壮な思いではなく、喜びにあふれた快活な雰囲気で尊い働きをなしましょう。そのためにはいつも、私たちの前にイエスを置くことです。